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作家 河村 塔王氏 提供
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◎四条中納言藤原山蔭が、光孝天皇( 『君がため 春の野にいで 若菜摘む 我が衣手 に 雪はふりつつ』を詠んだ )の命を受け、鯉の切型を定めたことに由来すると伝えら れています。
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◎四條流と言っても、古い伝書には色々な系図が残されておりますので、簡単にこれらについて 触れておきたいと思います。
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◎『四條流庖術膳部伝来書』という伝書の中には、次のような系図が出ております。
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山蔭中納言藤原政朝卿 − 四条大納言従二位隆重卿 − 細川右京大夫晴元 − 大志麻六郎左衛門長次
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◎この庖丁系図の中に出てくる晴元というのは、細川勝元のひ孫(勝元−政元−澄元−晴元)に あたる人で、料理の名人であったと言われております。 大志麻氏は、晴元の家臣です。
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◎大草流というのは、大草三郎左衛門尉公次等の名が残っておりますが、これは京都の将軍家 の庖丁人であります。
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◎徒々草の中に出てくる『園別当人道』という人も、有名な庖丁者であったといいますが、これは 藤原基氏のことであります。
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◎四條流には、この他に『四條園部流』というのがあります。 この庖丁系図によりますと、私共が継承している四條流というのは、この四條園部流であること がわかります。
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園部新兵衛尉−吉田五左衛門−園部和泉守−小川−神谷−喜多山−羽田−橋−中村−日根−福永−森下 −西村−石井治兵衛嘉福− 石井治兵衛嘉考・・・・・
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※四條流を学んだ園部和泉守は、三河松平氏に仕えていましたが、徳川家康が江戸幕府を創始 すると、『四條園部流』が幕府料理番となり、各藩への普及が進みました。
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※この後、四條流は石井家に伝えられ、現代へと継承されているのです。
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